“ブレイクダンスのひみつ”
白人のパンクねーちゃんがHIPHOPの立役者とな?
ブレイクダンスとは何なのか?
一言で言えばストリートダンスのエレクトリックブギとBボーイングを組み合わせたロックステディクルー(以下RSC)が始めたダンススタイルのことである。
RSCは1977年にブロンクスで結成されたBボーイングのチームだ。「バトルを挑んで勝った者しかメンバーに入れない」という厳しい掟によりメンバーは増えず衰退しかけるが、79年クレイジーレッグスの加入により再び盛り返す。80年にクレイジーレッグスはブロンクスからマンハッタンに引越し、マンハッタンで新しいメンバーを集めてRSCを名乗り活動の拠点とした。それ以降マンハッタンでもBボーイングは盛んになっていき、ブロンクスやマンハッタン以外にもライバルチームが現れる。81年にRSCとクイーンズのダイナミックロッカーズとのバトルイベントが行われ、ナショナルジオグラフィックをはじめとする様々なマスコミで紹介され知名度が上がりだす。
そしてこの頃に現れたイギリス人女性、クールレディブルー(本名ルーザブルー)によりRSCは大きな波に乗る事となる。レディブルーは81年にマルコムマクラーレンとヴィヴィアンウエストウッドのブティック『ワールドエンド2』開店のためロンドンからニューヨークへ渡ってきた。チェルシーホテルに住みNYのパンクシーンに出入りしていた彼女だが、段々とNYにヒップホップシーンにハマっていく。一方マルコムマクラーレンは当時プロデュースしていたバウワウワウのNYライブに出演させるアーティストを探していた。ハーレムを歩いていると通りの向こうにセックスピストルズのTシャツを着たでかい黒人が歩いているのを発見。びっくりして声をかけたその黒人男性はアフリカンバンバータだった。
マルコムはバンバータに、またレディブルーはRSCにバウワウワウライブの前座をオファーする。そこへさらにフューチュラ2000らグラフィティライターらも加わり、この前座パフォーマンスは後のヒップホップと呼ばれる「ラップ」「DJ」「Bボーイング」「グラフィティ」の4つのエレメントがパッケージングされた最初のショーとなった。
マイケルホフマン(グラフィティをアート界にフックアップした人物でRSCの最初のマネージャー)とレディブルーはこの日の盛り上がりを見て、RSCを出演させるレギュラーパーティーをレゲエクラブ・ネグリルでスタートさせる。パーティーはすぐに大盛況となり、オーバーキャパで消防法にかかり会場変更を余儀無くされてしまう。そこでレディブルーは巨大ローラーディスコ・ロキシーのオーナーを説得し金曜レギュラーの座を獲得。毎週金曜の『ホイールオブスティール』と題されたパーティーはNY中のBボーイは愚かパンクスまでもが集まるヒップホップカルチャーの中心基地となった。黒人もプエルトリカンも白人も、ドレスアップした奴もドレスダウンした奴も皆がいり乱れ、パンクスはヒップホップのステップを、Bボーイたちはスラムダンスを真似して盛り上がるという、そこはまさに人種のるつぼとなった。
取材にやってくるマスコミに対し、レディブルーがRSCの(ショーとして行われるエレクトリックブギとBボーイングを融合させた)パフォーマンスの事を「ブレイクダンス」という名称を使って説明したのでその呼び名が世界中に広まり定着したという説がある。クレイジーレッグスらオリジナルBボーイ達はこの名称を嫌い「Bボーイング」という呼び名に戻そうという動きをしているが。我々日本人のほとんどが風見慎吾の『涙の take a chance』で「ブレイクダンス」と出会ったのだから、別にそのままでもイイじゃないかとゆー感じがする。レディブルーをそんな悪者扱いなどせずにヒップホップを世界に広めた立役者としてもっと崇めるべきである。
(文:ダヨーン)